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インタビュー

神山民江として生きてきて

平成30年12月発行 / 長野県在住・昭和16年生まれ

いつでも、全力投球

平成29年11月16日。
「THE神山民江」創刊号の発行にあたり、長野県伊那市に住む彼女を訪ねた。長野県南安曇で生まれ、父の転勤で転校をたびたび経験した民江さん。高校卒業後に東京の看護学校に入学。そこで遠縁の公秀氏と運命的に出会う。4人の子どもの母として、神山内科医院を陰で支える事務長として、いつも全力投球で取り組み、今も活動的な毎日を送る彼女の半生に迫る―。

開戦の年に生まれて

 昭和16年に、母の実家がある南安曇で生まれました。同じ年に開戦し、12月8日がパールハーバーの日だったと思うのですが、それからすぐに父が出征したんですね。それで父が戦争から帰ってきたのが、昭和21年の7月です。5歳のころでしょうか、「みーちゃんのお父さんだよ」と言われて父の膝の上に抱かれて、ひげ面が当たって痛くて痛くて困った覚えがあります。「誰なんだろう」と不思議な気持ちでした。

 父の出征中は、信州新町の父の実家で過ごしました。そこには、父の母と、父の弟である叔父が3人いました。叔父たちはまだ若く、1人の叔父は病気で伏せっていました。大人の男性がいないので、山仕事にも母が出掛けていました。当時の母は、とても大変だったと思います。終戦の年だったと思いますが、家のそばの犀川の堤防が決壊して洪水になりました。見る見る家の方まで水が押し寄せてきて、崖の上のお寺に避難して一晩過ごしました。翌日戻ると、2階の畳すれすれまで水が上がっていたのを覚えています。

 父は警察官で、戦争から帰ってから岩村田警察署に復職しました。父は厳格でまっすぐな人でした。母は良妻賢母ですね。子どもたちには優しい、自分を犠牲にしても家族を守るタイプの人でした。母は看護師をしていたので、衛生観念もあって、私たちが病気にならないように心を砕いてくれていました。私は3人きょうだいで、2歳違いの兄と父の復員後の昭和22年に生まれた弟がいます。

転校の多かった小・中学校時代

 父は県警でしたから、県内を転々として、小学校は4つ通いました。岩村田、小諸、屋代、長野とね。最終的には長野で、城山小学校という善光寺の参道の東側にある学校を卒業しました。転校して新しい人が入ってくると、いじめは今と一緒でありましたね。でも、何か1つでも秀でているところがあると、いじめは克服できると思います。屋代の小学校では、「歌が上手」と先生が認めてくれました。盲目のピアニストが屋代に来たときに、その人が作詞・作曲した歌を、先生に言われて大勢の前で歌ったこともあります。

 城山小学校では、4、5、6年の担任が理科の先生で、百葉箱で温度を測って、クラス全員で3年間表にしたり、グラフにしたりして管理していたんですね。その結果の自由研究が、県のコンクールで優秀賞を取ったんです。各家庭にカメラがあった時代ではありませんので、何も残っていないのが残念ですが、立派で面白い研究だったと思います。

 城山小から柳町中学に入学後、父が市警に移って官舎が変わり、2年から同じ長野市内の川端中学に転校しました。さらに3年の6月には、大町中学に移ったんです。大糸線の大町ですね。大町に引っ越すとき、普通の日なのに授業をやめて、川端中学のみんなが長野駅まで送りに来てくれました。警察の方も「西澤警部、万歳!」と見送ってくれるので、にぎやかでした。そのときに「ある男の子がホームの隅で泣いていたよ」と同級会で話題になったというのを、後でお友達から聞きました。川端中学はクラスがまとまっていて、同窓会を今でもやっているので、日にちが合えばできるだけ参加したいですね。

 大町中学では、行ったとたんの12月に「火の用心のポスターを描け」と指名されました。一種のいじめでしたね。私が絵が下手なのをわかってのことでしたから。泣きながら描いた絵が冬中貼られていた、苦い思い出があります。それから、私はスポーツが苦手でした。でも、勉強は帰ってきたらすぐにその日の復習をしていました。だから、勉強で困ったことはないですね。

洋画が好きだった高校時代

 小学校と中学校を転々としたので、高校は転校したくないということで、松本の蟻ケ崎高校に入りました。女子高です。大町から、毎日1時間かけて通っていました。駅は北松本で、男子校の深志高校もありました。道の左側を深志高校の生徒、右側を蟻ケ崎高校の生徒が歩いていましたね。運動会になると、深志の生徒が見ているから、ブルマーはぴっちりしたのを履いてはいけないよと言われて、ひだが入ったのを履いていました。

 高校ではソフトテニスをやっていたのですが、うちの父は運動が嫌いで、「運動なんか、やっちゃいかん」と言われて、2カ月でやめました。真面目に早い電車でうちに帰っていましたが、当時洋画がはやっていて、月1回は中劇に通っていました。縄手にある映画館です。そのとき見たのが、「風と共に去りぬ」で、それはもう、何回も見ました。スカーレットにあこがれていたんですよ。

楽しかった東京の4年間

 うちは兄が大学に行っていたので「2人も出せないから、あなたは就職しなさい」と言われていました。それでも勉強がしたくて、東京大学医学部付属の3年間の看護学校に受験して入りました。

 東京大学医学部付属看護学校は、東大構内に寮があったんです。寮費だけで住めて、食事も支給されました。看護師だった母の影響もありますが、とにかく「学校に行きたい」、「技術を身につけたい」ということでしたね。学費がかからなかったものですから。寮生活では先輩に従っていろいろやりました。お友達と仲良くやっていく協調性は、そこで身についたと思います。東大には農学部の方に龍岡門という大きな門があって、常陸宮様が研究に通っていたのもお見掛けしました。そのすぐそばに寮があったんです。

 看護学校は1学年30人。医学部の学生さんのサークルで「セツルメント」という農村で検診などをする活動を一緒にしたり、五月祭で看護の歴史や看護がどうあるべきかという発表をしたり、安保のデモにも動員されて行ったりしました。楽しい学生生活でしたね。

 でも、3年間の勉強が済んでから、実際に血液を採ったり手術したりするのが好きじゃないということに気がついたんです。それで、「保健師の勉強をしよう」と、世田谷の馬事公苑にあった東京都立保健師助産師専門学院に1年間通いました。

保健師として働く

 保健師の学校を卒業した後、私は父の命令で岡谷の実家に帰ったんです。そして、下諏訪町に保健師として入りました。町の職員ですね。なるべく受診率を下げる、衛生教育をして回るといった活動をしながら、4年間役場に勤めました。

 その後、夫が岐阜大学の学生だったので大垣市に移り住み、大垣保健所に就職しました。「夫が医師になったら、岐阜に勤めるようにします」と言って、建ったばかりの3DKの官舎に住まわせてもらったんです。でも、長男を産んでから、「やっぱり信州に帰ります」と言って辞めて帰ってしまってね。今でも岐阜県には足を向けて寝られないんです(笑)。

 保健師の仕事は楽しかったですよ。大垣の保健所では一番若かったんですけど、ちょうどそのころ、未熟児の家庭訪問をする活動が始まったんです。それで、小さいはかりを持って、未熟児の家庭を訪問したんですね。岐阜の放送局が、その活動を新しい取り組みということで取り上げて、撮影した映像が地方放送のテレビで映ったこともあるんです。私が自転車で回っているところをね。

夫との出会い

 夫とは、母親同士がいとこだったんです。私が大町中学に通っているとき、なんかの結婚式のときに弟を神山の家に預かってもらったことがあったのですが、「キミちゃんっていう面白いお兄ちゃんがいるよ」と弟から聞いていました。東京に出てから、御徒町にある東京のおじさん・おばさんの家を頼りにご飯をごちそうになりに行っていたのですが、親戚筋の子が10人くらい集まって、みんなでワイワイやっていたんです。その中に松本から大学に出てきていた主人がいて、そこで初めて会いました。

 それから原の昭ちゃんという神山の家の近くに住んでいた子が大学に入って東京に出てきていたので、3人で遊ぼうということになって、豊島園なんかに行っていました。そのころ主人に対しては何の意識もなくて、ただの男の子のお友達というふうに見ていました。

 保健師になって岡谷の実家に帰ると、東京のおばさんが神山の家にあいさつに行くときに「民江さんもおいで」なんて言われて、行ったら「同じ医学部の方に進むのに2人一緒になったらどう?」と言われてね。「それはいいかもしれない」と思ったんです。ちょうど、主人は医学部に入って間もなくのときでね。それから「お付き合いしようかな」という目で見るようになったんです。

結婚式と新婚旅行

 結婚式は昭和42年の4月7日でした。世界保健機関(WHO)の「健康の日」にちなんで決めました。松本のはやしや会館で、40人ぐらいの式でした。「結婚式の衣装は俺が作ってやる」と、父が知り合いの洋服店に注文して、ウエディングドレスを作ってくれました。そのドレスは、後に私の娘も直して着たんですよ。

 新婚旅行は、主人の友達が赤いスポーツカーを貸してくれてね、缶カラが本当にぶら下げられていたのはびっくりしましたね。淡路島には台風で渡れなかったですけど、姫路まで行きました。帰ってくるときに白雪という日本酒を買って、「すごいお酒買えたね。よかったね」と1Kのアパートに帰ってきたら、夫の友達が5、6人待っていて、酒盛りが始まったんです。荷物を運びこんだばっかりで、コンロの調整にも苦労しながらようやく一品作って出すと、あっという間にみんな食べちゃう。夜になっても帰らない。そのときは5人くらい泊まりましたね。私は、キッチンに主人が持っていた折り畳みのビニールの椅子を置いて寝たんですが、風邪をひいちゃいましたよ。その翌月の5月から、大垣の保健所に勤務することになるんですね。

お産は快感

 長男が昭和43年の11月に生まれたのですが、主人の医大の卒業式が昭和44年の3月でした。クラスのみなさんの許しを得て、私も4カ月の赤ちゃんを抱いて卒業生の集合写真に一緒に入っているんですよ。産前産後は、休暇をもらって岡谷の実家に帰っていたんですけど、ちょうど母がぎっくり腰で入院しちゃって、大きいおなかで父の面倒を見たり、母を見舞いに行ったり逆に大変でした。そんな中で、出産は予定日より13日も遅れたんです。それまでおなかが苦しかったのが、生まれたとたんにすっきりして、その気持ちよさ、快感で、「もう1人産みたい」と思いました。それで思わず4人も産んじゃいましたけど(笑)。

 昭和45年に仁美が生まれたときには、「女の子でよかった」と思いましたね。名付けは、神山の母が占いに見てもらって付けました。育男が生まれたのは昭和47年の7月です。上の子どもたちに比べて、生まれたばかりの赤ちゃんはとても小さく感じられて、「無事に育ってほしい」と思ったのと「愛を育んでみんなを愛せるような人になってほしい」と思って育男と名付けました。

 その6年後が晃男です。どうしても、もう1人ほしかったんです。36歳で産んだんですが、上の3人がぞろぞろ面会に来てくれると、「子どもがこんなにいるのに産んだの?」なんて言われたものです。

子育てに奮闘

 松本で上3人の子育てをしているときは夫がいなくて母子家庭みたいでしたが、6時には夕食、8時には寝るという子ども中心の生活ができたのはよかったと思います。子育てで心掛けていたのは、子どもの安全が第一、そして食事が大事ということですね。

 教育は、体育系と情緒系を両方やらせたいと思っていました。せっかく松本にいるんだから、鈴木鎮一さんのスズキメソードで子どもたちを教育したいと、3人を自転車の前と後ろとおんぶで乗せて通いました。スズキメソードというのは、最初は譜を見せずに、遊ぶときもずっとテープで音楽を聞かせてバイオリンを弾かせるんです。最初は「きらきら星」でした。哲男に続いて仁美、育男もやっていました。晃男だけは伊那に移ったのでやっていませんけどね。近くに習字の先生や英語の教室もあったので、そこにも通わせました。哲男は5年生のときに英語で何級かを取って褒められたりしていましたね。マット運動や鉄棒を教えてくれる体育教室も松本市内にあって、3人とも通いました。水泳教室にも通わせましたから、丈夫な体作りができたと思います。

 それから、夜8時になると、子どもたちに本を読みました。子どもたちはとても熱心でしたね。哲男は「エルマーの冒険」が特に好きでした。

松本を離れ、伊那へ

 伊那で開業という話が出たとき「松本に土地もあるのに」と思いましたが、神山の母が「キミちゃんの好きなようにすればいいよ」と背中を押してくれました。実家の母も「伊那は住みやすいところだよ」と。実はプロポーズのときに、主人は「僕は教授になるからね」と言っていたんですけどね(笑)。とにかく、資金がないでしょ。「借金、返せるのかなあ」と思いました。「もう松本には戻れない」とも。建前の餅投げのときに、松本でレストランをやっているお友達が料理を運んできてくれて大工さんを接待したんですけど、それは感慨無量でしたね。

 伊那小の学区だったことは、よかったですね。伊那小学校は、全国でも珍しい、通知表がない、チャイムが鳴らない、新しい教育で有名になっていたんです。生徒が自由に話し合って、クラスでテーマを決めて、1年間突き詰めてやるといった感じでしたね。上の子どもたちは、伊那小の5年3年1年に入りました。合間には塾にも行かせましたが、伊那小の教育そのものはいいと思いましたね。

 晃男は、伊那に来たときにはまだ1歳6カ月でした。開業10年くらいして少し落ち着いてきた主人が、晃男の教育ができたのはよかったと思います。一緒にお風呂に入ったりね。晃男が伊那小のときは、学校でポニーを飼ったんですね。交尾させて、お産を子どもたちが泊まり込んで観察したりしたんです。最初のころは怖くてポニーに触れなかったような晃男が、最後に御殿場にポニーを帰すときにはたづなを引いて連れて行ったりしたんです。おかげで強くなったと思います。ああいうことをやったから、もっと勉強しなくちゃという気にもなったんじゃないでしょうか。

人生を振り返って

 子どもたちは、みんな自分で決めた進路に進んで、それぞれが家庭を持ってちゃんとやっています。私の仕事は終わったかな。これからは、主人と2人で仲良くと思っています。

 哲男や育男が、お父さんの背中を見て医学の道に進んでくれているのは、ありがたいと思います。医院は主人が好きで始めたことですから、一代で終わってもしょうがないのですが、患者さんのことを思うと、跡を継いでくれる育男には感謝しています。専門医の技術があるのにいいのだろうかという気もしましたが、「外科医としては、あと何年かしか技術は使えないからいいんだよ」と言ってくれました。お嫁さんもよく決心してくれたと、本当に感謝しています。

 私は、神山医院を縁の下の力持ちとして支えてきた立場です。主人の人柄もあって、皆さんに信頼されてやってこれたのが大きな力になっていたと思います。主人も私も丈夫だったので二人三脚でこれまでやってこれました。

 そんな中でも、海外旅行に二十何回行っています。その点は自由にさせてもらいました。最初の海外旅行は、美容院のクイズでロス5日間が当たったのですが、躊躇する私に主人が「どうしても行って来い」と言ってくれました。

 38年間、地域の皆さんの役に立ってきたかな、主人を支えられたかな、と思います。子どもたちも丈夫で、それぞれにいい家庭を築いていますから、言うことはありません。今年の4月7日は、金婚式でした。振り返れば、素晴らしい人生です。これからも、これが続いてほしいと思いますね。

Family’s Photo

神山民江として生きてきて家族写真

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編集後記

神山民江さんのオリジナルの雑誌がついに完成しました。お子さんたちを愛情深く育て、2人3脚で公秀さんを陰でしっかり支える良妻賢母というのが民江さんの第一印象でした。でも、お話を聞いているうちに民江さんの魅力はそれだけではないことがわかりました。東大の看護学校に進学されたお話や初めての海外旅行でどんどん一人で行動をされたお話、そして、現在も積極的にボランティア活動に取り組んでいらっしゃるお話には本当に感じ入りました。なんてすばらしい行動力をお持ちなのでしょう。憧れます。
この雑誌はそんな神山民江さんの魅力を十分に感じていただける1冊になったのではないかと思います。ぜひご堪能ください。ありがとうございました。

「神山民江として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 遠藤紀子

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