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インタビュー

高城雄三として生きてきて

令和2年3月発行 / 東京都在住・昭和26年生まれ

人間万事塞翁が馬

2019年11月18日。「THE高城雄三」の発行にあたり、東京都多摩市にてインタビューを行った。香川県高松市に生まれた高城雄三さん。中学時代に学業に目覚めるも、事故による記憶力低下で苦悩の日々を送る。大学中退後、上京して造園会社に勤めたのち、CSS技術開発を創業。以来、10年おきに訪れる数々の危機を持ち前の発想力で切り抜け、会社を大きく発展させてきた。2時間にわたるインタビューから、彼の波瀾万丈な人生に迫る-

生い立ち

 1951年に香川県高松市で生まれました。4人兄弟で、男は私だけです。実家はカメラ屋でした。父が戦地から復員してすぐにカメラ屋を始めたんです。街頭写真といって、商店街で歩いている人の写真を勝手に撮って、欲しい人に売ったりしていましたが、あの当時はまだカメラ屋は少なくて、繁盛しましたね。小さいころのことは、映像としてはっきり覚えているんです。まだ言葉をしゃべれないとき、何か声を出すとみんなが笑うので、ああ、こうすれば喜んでくれるんだなと思ったことを不思議とよく覚えています。それから、当時、冬は家の中で氷が張るほど寒くて、夏はものすごく蒸し暑かったんです。その寒さ、暑さを何度か経験するうちに、子どもながらに季節が巡ることを理解しました。

 父は、好き勝手なことをやる人でしたね。花が好きで、カメラの仕事でもうけたお金で、次にハイビスカスやヤシの栽培事業を始めたんです。母は元教師だったので、教育熱心でしたね。それから几帳面な人でした。子どもに優しくて、母からはいろんなことを教わりました。でも、夫に甘いところがあって、夫が悪いことをしてもあまり騒ぎ立てないから、女性問題がいっぱい起きました。

 僕は小さいころに結核にかかっています。小学校に入ってすぐに病状が悪化して、山の療養所で1年半くらい生活しました。子どもだけが暮らす病棟で、裏山で遊んだり、虫を捕まえたり。僕はガキ大将でしたから、悪いことばっかりやっていて、時々お仕置きで解剖室に閉じ込められるんです。夜になるともう怖くて怖くて、泣き叫んでました。そんな暮らしで、家族と離れて暮らす寂しさはありましたが、結構楽しかったですね。当時、結核の特効薬のストレプトマイシンは1粒五千円もしたんです。多くの人はそれが買えなくて、病状が悪化していきました。うちは薬が買えたので、僕は徐々に回復し、家に帰ることができました。

 療養所では勉強なんて何もしなかったから、小学校に戻ってからが大変でした。字が読めないから、成績表はオール1。勉強よりも仲間をいじめてるほうが楽しいという悪ガキでしたから、よく怒られては廊下に立たされて、しまいには校長室に預けられました。それでも、母が教えたり家庭教師がついたりして、6年かけてようやく普通の成績になりました。

 中学のころ、父が高松市の南のほうにハイビスカスなどを栽培する農地を持ったので、そちらに移ることになりました。そこの中学に入ったら、不良のたまり場のような学校でね。入学した日から殴られましたから。でも、いいこともありました。それまで成績は真ん中くらいでしたが、その学校では上のほうになれたんです。それがうれしくて、そのとき初めて勉強したいと思いました。ちょうど友達に誘われて塾に行き始めたら、予習復習をしっかり教わったのでそれからは学校の授業が分かりやすくなって、試験のたびに順位がどんどん上がり、ついに1番になりました。わが世の春でしたね。ところが、中学2年の冬のことです。塾の帰り道、氷が張っていたので、僕の前にいた友達がひっくり返り、その子の頭が僕の鼻に激突しました。その後、黄色い鼻が出続けるので病院に行ったら、蓄膿になっていました。蓄膿自体は治療で治りましたが、それ以来、記憶力がものすごく落ちてしまったんです。今までは数日で一冊の教科書を丸々覚えられたのに、それが全くできない。どんなに努力してもできないことがあると初めて知り、落ち込みました。

 成績は徐々に落ちていきましたが、高校受験はどうにか乗り切って、進学校に入れました。でも、好きな授業の物理・化学・数学はとても良くできましたが、国語と英語の授業はついていけなくなり、勉強への意欲がなくなりました。青年の悩みもたくさん出てきて、父の事業には興味を持てないし、何をしたらいいか分からなくなってしまった。高校時代は、苦しい時間がただ過ぎただけという感じでした。

放浪生活

 大学にはとりあえず行かなきゃと思い、高校3年生の半年は必死に勉強して、香川大学農学部に滑り込みました。だけど、大学でも英語やドイツ語が全くできず、学業に行き詰まってしまって。そのころは人と接するのも苦手で、生き方そのものにも悩みを抱えていました。それで、もうどうにもならなくなって、体調も崩して入院生活を3カ月して、20歳のときに大学を休学、放浪生活を始めました。

 広島、山形、仙台、岩手を転々として、最後には北海道に行きました。父も若いころに放浪のようなことをやっていて、北海道の炭鉱で働いたこともあると聞いていたので、自分もいつか行ってみたいと思ってたんです。当時、僕のような放浪者は「カニ族」って呼ばれたものです。夜は毎日野宿で、公園のベンチの上に寝たり、雨降りの日は地下鉄の駅で雨宿りして、駅前広場で寝たりして、それを僕らはパークホテル、メトロホテル、ステーションホテルとかって呼んでましたね。そうやって放浪しながら、気に入ったアルバイトを転々とやっていました。

 あるとき、網走から屈斜路湖に行き、それから釧路に着いたんです。そこで宗教団体の人から講演会に誘われて、何となく行ってみました。話は大したことなかったけど、教会に泊めてくれるというから、ついていきました。そのうち、彼らは自家用マイクロバスで高知まで行くというので、一緒に乗っけてもらい、そのまま布教活動の手伝いでもしてみるかと。その宗教のことは全然信じてなかったけどね。布教活動といっても募金を集めるだけで、しかも、災害救援のためにとか、青少年の健全育成のためとか嘘っぽいことを言うわけです。そんな詐欺っぽい団体でしたけど、彼らが利用していたキリスト教の言っていることには納得できました。罪の意識とか、愛と犠牲とか、そういうことですね。3~4カ月活動しましたが、途中で体を壊して、彼らとは別れて家に帰りました。

社会へ

 家に帰っても何もすることがないんで、浜松にいた父に誘われて、父の仕事を半年手伝いました。そのうち、だんだんと自分のやりたいことで働きたくなって、大学は退学して東京に行くことにしました。父の仕事にはやっぱり興味が湧かなかったんですね。

 東京では、いとこの直樹ちゃんと一緒に部屋探しをして、中野でアパートを見つけました。まず初めにやったのは写真のアルバイトです。カメラマンの助手として、荷物運びなんかをしました。その次は、ハローワークで瓦屋と葬儀屋の仕事を見つけて、どちらも面白そうで迷ったんですが、瓦屋を選びました。ここでも最初は荷物運びと運転だったけど、だんだん瓦をふけるようになりました。危険な仕事ですから、給料は良かったですね。仕事以外は何もすることがないから、社交ダンスを習っていたんですが、あるとき、ダンスの先生が「うちの屋根が雨漏りがするのよね」って話してたんです。それを聞いて、僕は次の日曜日にぱっと直してあげました。そしたらすごく喜んでくれてね。それで、その先生が「高城くん、何かしたいことない?」って聞いてくれたんです。そのとき、僕はとっさに「植木屋になりたいんです」と言いました。そんなこと思ってなかったんだけど、やっぱり父のこともあったから、そっちの道を捨てられなかったんですね。そしたら先生は、すぐに教え子に連絡を取ってくれて、僕は富士植木という千代田区九段南の大手の造園会社に植木職人として雇ってもらえることになりました。

 植木職人としては2年間働きました。官庁の仕事が多い会社だったんで、国会議事堂や皇居なんかの植木の手入れをしましたね。皇居で仕事をしているときは、天皇が来ると「隠れろ、隠れろ」って言われたもんです。

 ある日、部長から「明日から所沢に行ってくれ。立っとくだけでいい仕事だから」って言われましてね。言われた場所に行ってみると、仕事をするはずの下請けの人は挨拶しただけでさっさとどっかへ行ってしまって、元請けの僕と孫請けの数人だけが残された。僕は何も聞いていないからどうしようかと思ったけど、図面を見ているうちに、だんだん興味が湧いてきました。公園を造る仕事で、できるかどうかは分からないけど、面白そうだなと。それで、1日待ってくれと言って、家に帰って勉強して、次の日から、自分で測量して、孫請けの人たちと一緒にやり始めたんです。手探り状態でしたけど、やっているうちにだんだんコツが分かってきて、公園ができあがりました。しかも、とてもきれいにできたんです。それを見た会社の役員から、社員にならんかと誘われました。職人より給料は下がるけど、と言われましたが、まあいいや、と。流れのままにやってみようと、社員採用を受け入れました。

 それからはいろんな現場を任されましたが、全部うまくやれるんです。僕はもともと、測量に必要な数学と書類作成の能力が高かったんですね。次から次へとどんどんこなして、1人で4つくらいの現場を同時に抱えたこともありました。そうすると、今度は大きい仕事が回ってくるようになって、32歳のときには会社で一番大きな仕事を任されるようになりました。

 仕事をこなしていく中で、測量に大変な時間がかかるのをどうにかしたいと思うようになり、独学でソフト開発に挑戦しました。開発用のコンピューターは20万近くしましたが、自腹で買いました。プログラムなんて分かりませんから自信はなかったですが、1週間で少し動くようになり、1カ月後には手計算で1時間かかっていたものが3秒でできるようになりました。さらに2カ月後には手計算で1日かかる計算が30秒でできるまでになりました。今までより飛躍的に速く、正確にこなせるようになったんです。いつの間にか、植木職人から技術者になっていました。ようやく自分の天職を見つけたと思いましたね。それからはもう毎日プログラムの改善です。もっと便利なものを、もっといいものをと、どんどん変えていきました。

 そのうち、このまま会社にいることに行き詰まりを感じ始めました。僕の考案した測量システムを社内にも広めたいと思いましたが、会社からはなかなか理解を得られない。それに、公共工事なので書類作成業務が山のようにあるんですが、そこに多くの時間を費やすことに嫌気が差していました。そこで、独立して自分の測量システムをもっと多くの人たちに広めようと決心しました。その2年前には女房と出会って、結婚していましたが、女房も独立に賛成してくれました。

数々の苦難を乗り越えて

 1985年7月に円満退職をして翌8月にCSS技術開発を創業しましたが、創業当初からトラブルが起きました。一緒に会社をやるつもりだった人と、どちらが社長になるかでもめたんです。女房からの助言もあって彼とは決別しましたが、その1カ月後、私が作ったプログラムと動作が全く一緒のソフトが売り出されました。アイデアを盗まれてしまったわけです。相手は早くからソフトの準備をしていたのです。向こうは業界に通じた営業を入れて、どんどん売っていきますが、僕のほうは売れません。そこで私は、売るほうで競うのではなく、全く違う方法を考えつきました。ソフトを売るのではなく、こちらで測量してデータを作るところまでやって、それをコンピューターごとレンタルするという仕組みです。これなら、初めての人でもボタンを押すだけなので現場の人はすごく楽なんです。この仕組みはどんどん広がって、2年後には向こうの会社はつぶれました。うちが勝利したのです。これが、独立して最初の試練でしたね。うちのやり方はあっという間に主流になりました。いろんな賞をもらい、社員も雇えるようになって、経営は軌道に乗りました。

 ところが、独立からちょうど10年目、1995年の冬のことです。12月5日のボーナス支給後に1人の社員が退職願を持ってきました。その日から毎日1人ずつ、5人いた男性社員が全員会社を辞めてしまったんです。そして、彼らは新しい会社を作って、うちと同じようなことをやり始めました。突然の会社存続の大危機です。このときはものすごくつらかったですね。仕事は山のようにきますが、私1人ではどうにもならない。不安で眠れなくなって、体調を崩しました。

 このときはもう駄目かと思いましたが、そこでまた新たなアイデアが生まれたんです。とにかく人が足りませんから、まずは人をかき集めました。それまでは、経験のある優秀な人を選びに選んで採用していましたが、もうそんなこと言ってられません。ちょっとかじっただけの人でも採用しました。すると今度は、彼らでもすぐに使える、うんと簡単なソフトを作る必要が出てくるわけです。そこで、今までは座標を計算して打ち込んで、絵がだんだんできあがっていく仕組みだったのをCADに変えてからは、まず絵を描いて、それをソフトで読み込み座標を取り出すという、今までと真逆の新しい方法を編み出しました。そしてそれが、会社のその後の爆発的な進歩と発展につながるわけです。その当時はCADなんて誰も使ってませんでしたが、20年後の2015年にはCADでやるのは当たり前になっていますからね。

 それから、このときにもう1つ大きな変化がありました。人の育て方が変わったんです。今までは優秀な人間だけを採用して、できないやつは辞めてくれて構わないと思っていましたが、そのときから、それぞれの人が最も楽しんでできる仕事を探し出せるようになったんです。できる人には高度な仕事を専門にやってもらい、そうじゃない人には、その人が喜んでできる仕事を渡す。そういう人の使い方を初めて覚えました。それからは、どんな人が入ってきても大丈夫だと思えるようになりましたね。それまではうぬぼれて威張っていましたが、大きな試練で頭が切り替わったんです。

さらなる危機に打ち勝って

 1995年の危機を乗り越えて、しばらくは順調にいっていました。ところが、2005年にまた事件が起きたんです。会社を辞めた社員がうちのソフトを持ち逃げして、土木会社に入ってうちとそっくりのことをやりだしました。当時、うちの会社の取引先は造園会社がメインで、土木会社は2割くらい。土木に向くような仕事はしてなかったんです。このまま放っておけば向こうにやられてしまうから、新たに土木用のソフトを開発して、道具や測量方法も考えなきゃならない。そのときもどんどん開発の発想が出てきて、面白いように新しい技術が生まれました。効率が今までの5倍くらいになって、うちのやり方が爆発的に土木業界にも広がりました。また、ソフトを持ち逃げされたことに対して裁判をしました。著作権はうちにあるわけですからね。一審でも二審でも勝ち、最高裁でも勝って賠償金をもらい、相手は諦めて撤退しました。商売でも裁判でも、こちらの完全勝利に終わったわけです。

 商売をしていると、ねたまれたり、技術を盗まれたり、いろんなことが起きますが、それに打ち勝たにゃいかんわけですね。そういうときに新たな発想が出るか出ないか。私の場合、ピンチが起きれば起きるほど、新たな発想が生まれるんですよ。もっと普段から出ればいいのに、普段は出ない(笑)。振り返れば、ちょうど10年おきに何か危機が起きているんです。まあ、10年もするとマンネリ化するころだから、ちょうどいいのかもしれないね。

がんを宣告され、M&Aを決意

 2013年に前立腺がんが見つかり、余命は半年から1年と宣告されました。これから会社をどうするべきか。社員か家族にバトンタッチするか、あるいは売却するか。いろいろ考え、M&Aで完全に会社を手放すことが、家族への負担もなく、自分も心配しなくて良くなり、一番いい方法と思うに至りました。高い値で売るためには、今よりさらに利益を上げる必要があります。私に残された時間は少ないですが、どうにかしなきゃいかんと。そこで、また新たなソフトを開発したんです。それに伴って新しい測量機を1億円で購入しました。誤差の補正方法を変えることで、ものすごく速くデータを取れて、しかも今までのやり方と全く同じ結果になる方法を編み出しました。それによって、年1億だった利益が2億になり、翌年は3億になりました。利益が3億を超えたとき、もうこのくらいで手を打とうと、創業30年に合わせて会社を売却しました。

 抗がん剤が合っていたようで、私の寿命は延びました。会社も無事売却して、これであとはのんびりできるなと思いましたが、また問題が起きたんです。母に会社の株主になってもらっていたんですが、姉たちがその株に目をつけて、母の名前で名義株訴訟を起こされてしまいました。私は、母だったらこういういざこざは決して起きないと思って、契約書や念書を書いたりしてもらわなかったんです。まさか母の後ろに姉たちがついて、こんな事態になるとはね。父からは「親は信用していいが、兄弟は信用するな」と言われてましたが、そのとおりでした。裁判には勝ちましたが、身内相手の争いに勝ってもむなしいだけです。まだ母とは仲直りできていませんから、生きてるうちに和解したいと思います。

人間万事塞翁が馬

 これまでを振り返ってみると、ずっと夢を追っかけてきましたね。夢を実現するには時間がかかるし、苦労します。でも、苦労があるから、また喜びがある。それが交互に、波のようにやってくるんです。そして、その苦労と喜びは、私だけのものに終わらなかった。その結果、とてもいいものをできあがって、使った人皆が楽になり、社会に貢献できたことは本当に良かったです。いい仕事に就けたと思いますね。自分は天職につけていたのですね。創業から10年ごとにくる危機を乗り越えられたのも妻と一緒だからできたのです。2人で考え、内助の功を受けてどれも解決したのです。1人なら早くに投げ出していたでしょう。ミサさんありがとう。

「人間万事塞翁が馬」ということわざがありますが、悪いことばかりは続かないし、いいことばかりも続かない。でも、もちろん努力は必要です。悪い状況のとき、くじけたり諦めたらあかん。そこで負けたら終わってしまうけど、それはチャンスなんで、踏ん張れば大きく飛躍するんです。私の生きざまを残すことで、そのことを後世の人たちに伝えたいと思います。

 

Family’s Photo

高城雄三として生きてきて家族写真

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編集後記

「THE高城雄三」がついに完成しました。会社に危機が訪れるたび、それをむしろ肥やしにして全く新しい発想を生み出し、さらなる発展の契機とされてきたというお話には大変感銘を受けました。お仕事の上でも最高のパートナーでいらっしゃる奥さまとのご関係も、本当に素敵です。
本誌が、ご家族の皆さまをはじめ、周囲の方々が高城さんをより深く知るきっかけとなれば幸いです。ありがとうございました。

「高城雄三として生きてきて」取材担当 コミュニケーター 岩沢晶子

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